ARTS SEED KYOTO

検索

NEWS

THEATRE E9 KYOTO 第1期アソシエイトアーティストの発表

2019.11.01

今夏、年齢不問で公募いたしましたTHEATRE E9 KYOTO 第1期アソシエイトアーティストが選出されましたので、お知らせいたします。

全国より25名のアーティストのご応募をいただき、選考の結果、村社祐太朗氏に決定いたしました。1次2次ともに劇場運営委員との協議、討論をかさねて、理事の意見を参照し決定に至りました。わずか1名の選出には、許される最大の時間を費やしました。

村社氏の問題意識は、その劇中の事象のみならず、演劇の持つ過程、関係する諸要素そのものが射程となります。作品としては小さな、という表現が妥当かと思いますが、内包する世界は、広く深い。アソシエイトアーティストに提供できる創造環境は、稽古スタジオと劇場の活用ですが、それ以上に何ができるのか、村社氏との関係の中で、つくっていきたいと思います。

氏の示す文学の行間と、演劇との距離、或いはそこに生まれる余白と、この劇場がある町並みと、イメージを重ねたくなる誘惑を感じています。

3年にわたる創造活動がどのように顕れるのか、私たちも楽しみにしています。

 

THEATRE E9 KYOTO芸術監督 あごうさとし

 

村社祐太朗氏

(プロフィール)

新聞家主宰。演劇作家。1991年東京生まれ。2014年に作・演出した小作品が3331千代田芸術祭2014パフォーマンス部門で中村茜賞を受賞。上演の場に固有な身体を屹立させる特異なテキストは、演劇批評家の内野儀に「詩でもありパフォーマンスでもある」と評された。現代詩手帖の演劇特集(2018年11月号)では作品や活動を概観した論考が掲載された。ダンサーの山崎広太が主導する「Whenever Wherever Festival」ではキュレーターの一人を務める(18-19)。利賀演劇人コンクール2018奨励賞(岸田國士「屋上庭園」の演出)。2019年度より公益財団法人セゾン文化財団ジュニア・フェロー。近作に新聞家『フードコート』(19)やダンサーの福留麻里との共作『塒出』(18-19)など。

 

撮影:近藤千紘

 

(あいさつ)

このたびTHEATRE E9 KYOTOの第1期アソシエイトアーティストに抜擢いただきました。わたしはこの5年ほど、主に東京で新聞家(しんぶんか)というカンパニーを名乗り演劇作品の創作・発表を続けています。ただその活動はとても変わっていて、また小さいです。ですから京都の多くの方に限らず東京の多くの方に対しても、わたしには(与えられている恵まれた環境について)尽くさなくてはならない説明がたくさんあります。まずは今回の選考の過程でその説明の一部を慎重に聞いてくださり、こうして3年間に渡る創作活動の支援を決めてくださったあごうさとしさんをはじめE9の関係者方に感謝を申し上げます。また頂いた肩書きがわたしにとっていかにありがたいものであるかその説明として、あるいはこの英断への率直な応答として、ここではわたし自身の活動について手短に説明をさせてください。

 

わたしが演劇の上演の場に持ち込もうとしていることの一つは、「支度をすること」です。「支度」はわたしたちの生活において主に、〈出かける準備〉と〈食事の準備〉を言いかえた言葉としてしばしば表れます。もちろん取りこぼしもあるとは思いますが、不用意に言ってしまえばそれ以外の準備はただ「準備」や「用意」と呼ばれ、わざわざ支度とは言われません。ですから支度はどことなく細々していて、およそ自分にだけ関わる特定の準備のことを示しているとひとまず考えてみます。例えば髭を剃る、爪を切る、目やにを拭う。これは自らの威厳を懸けた諸注意として「身支度」と呼ばれます。また旅支度は、自らの旅先での生活が破綻しないようにいくらかの予想を立てる行為です。外からやってくる諸事情や未知の事態に備えて先んじて手を動かすわけです。そしてこの延長に食事の支度があります。というのも、ことに食事のことを考えるといっそう支度の意味が詳しく捉えられるように思います。「食事の支度」は単に料理や調理の言い換えではありません。「の支度」と続けた途端に、箸や取皿、大小のサービングスプーンの用意、そしてクロスや小鉢のレイアウトや椅子の引き加減などが料理・調理の外縁に含まれてしまいます。つまり食事の支度では自身に加えて、あるいはほとんどそれと同等に相手の動作が問題になってきます。例えばスパニッシュオムレツを何で切って、何をつけ、どう食べるのかを、余分なカトラリーや空の小皿の数や調味料(ケチャップ?)等の構成によって、自分が普段どうしている、あるいは今回どうするつもりかを相手に知らせ、動作に導く必要がでてきます。あるいは同席する相手の膝の曲がらなさに考慮し、椅子を机に対してはすに開いておいてもいい。

ただその一方で支度は、あくまで自己完結的なものです。予測をどれだけ逞しくしても、相手のことをどれだけ深く思っても、わたしたちは自らの一存でこつこつ支度を整えていきます。旅先で同じ部屋に泊まる人が「なぜその歯磨き粉を」と訊きます。わたしには頑とした説明があって、またそれはいかにも自分以外の人も納得してくれそうなものだと思っています。言葉を尽くすとあなたは「ふうん」とだけ言います。支度とはそういうものです。

上演の場には、この支度が足りないとわたしは考えています。なぜそれを選んだか、設けたか、およそそのほとんどに理由を添え皆を正面から納得させないといけない。もちろんそれも必要な過程です。しかし対話の仕方やその中の生活者としての振る舞い、言葉を扱う手つきとそれに伴う毛羽立ちといった様々な関わりの肌理にこだわるには、答えを出したり判断を明確にすることが困難であるいくつもの諸問題について気を回しておかなければならないはずです。「支度」はいわばそういった判断保留のきっかけになり得ます。その他者の触れ難い親密な思索を慎重に扱う態度さえあれば、それをそっと迂回したり、あるいは一度伏流を延ばして、またどこか先のほうで折り目をつくってそこへ戻ってこれるでしょう。わたしたちには常に先に寄らなくてはいけないところ、かけなくてはならない時間があるかもしれない。支度にかけた時間、支度にはらった配慮を、解決を見ない言い淀みとして上演の場まで引き込む。それがわたしの関心のひとつです。

 

ここ東九条エリアには、性急な都市の時間を正しくも一時留めるようにバラックが散見されます。この地区へこうして凛とした上演空間が出現したことは、わたしが上演に対して日々苦々しさを思っているということも、あるいは上演に日々ひしひしと可能性を感じているということも、同時に思い出させます。この接地面のことをどう考え、作品の創作・発表に取り組めるかを自分自身すごく楽しみにしています。貴重な機会をありがとうございます。どうぞよろしくお願いします。